ホテルを出る

ホテルと英語学校を往復する日が何日か続くと、手元のトラベラーズチェックが、少しずつだが減って行く。これは何とかしなければと、探し出したのが、日系人夫婦がやっている「下宿」。Boarding Houseというやつです。エージェントの紹介だったか何だったか、忘れてしまった。日記くらいつけるべきでした。


これも後から、地元の人に聞いた話は「良くそんな怖いところに住むことにしたな!」というもの。右も左も分からない僕は、怖いものなしです。


毎日小さな驚きが続くのですが、下宿を訪ねて驚いたのが、経営しているご夫婦が、まったく日本語をしゃべらない人たちだったこと。それと、下宿は、出稼ぎの人たちの宿だったこと。沖縄の人たちが沢山いると聞いた。食事は、朝と夜が出る。これは、アメリカ式。うす~~~いコーヒーと、ハッシュド・ポテトがやけに印象に残っています。部屋も、あまり綺麗でなく、ちょっと不安が。


食事をしていると、隣の席から日本語らしきことばが聞こえてくるが、まったく意味が分からない。沖縄の人たち同士が話していたのです。当時は、沖縄返還(昭和47年)から6年後。まだ沖縄から、庭師の仕事等で、アメリカに多くの人が出稼ぎに来ていたらしい。その人たちと、少し話を始めると「最近は円高で、仕送りできる金が減って困る」と言っていました。当時、ほとんど瞬間的(=数カ月の間だけ)1ドル160円~170円代だったから。(1年後に帰る頃には、240円くらいに戻っていた)


大統領は、ジミー・カーターの時代というのも、後講釈で、その時は、生活に慣れるのに精一杯でした。下宿では、皆無口な人が多く、さびしく過ごしました。英語学校に行っている日中が楽しみでした。毎日、バスを乗り継いで、30~40分かけて学校に通うのが楽しい。バスの中は、乗客が声を掛け合うリラックスして雰囲気で、日本とは違うなと思いました。肩が触れ合うと"Excuse me!", "Uh ha."というのどかな声の掛け合いが、妙に嬉しかったことを思い出します。


そのうち、日本で知り合った友達が紹介してくれた日系人家族のところに何回か遊びに行くことになりました。

 

 

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